ご無沙汰しております。ぬま~りおです。
前回の投稿から3年と6か月が過ぎました。
それにはちょっとばかり理由がありましたことを紹介したく、
久しぶりに筆を執る次第です。
かなり重い内容になりますことを予めご容赦ください。
時は遡ること2014年の6月、前回の投稿で「イギリスで家を買ってみよう」を
更新した頃、我が家では嬉しいお知らせがありました。
結婚して7年目、待望の子供を授かったのです。
子供が大好きな妻とはしゃぐように喜びました。
妻の子供の好きっぷりはかなりのもので、バスや電車の中でわんわん泣き叫ぶ
よその子供を見ても、「うるさい」「親は何してるんだ」とは一切思わず、
「泣かない子より泣くだけ元気な証拠だわ」と、笑顔で見てたほど。
年齢もちょうど30歳を迎えた年で、妻の体もまだ負担が少ない時期に授かり、
喜びもひとしおでした。
妊娠12週目のエコーではその姿もしっかり確認、心臓もパクパク動いてました。
予定日は翌年2月6日と設定されました。
イギリスは基本的に医療は全て無料、妊娠・出産に関わる全てが無料である上、
妊婦さんは妊娠が分かってから産後1年まで、処方薬や歯医者も全て国が負担します。
毎月の検診もありますが、その代わり、エコー写真は出産まで2回しか撮りません。
良くできた子で、妻のつわりは殆どなく、仕事にも支障がありませんでした。
むしろ、お腹が大きくなるまで、同僚は全然気が付かなかったようです。
血液検査でダウン症の心配もなし、異常値は全くみられず母子ともに健康そのもの。
妊娠20週目のエコーでは男の子だということも分かりました。
色々と無精は我々夫婦は、ちょっとずつちょっとずつ、ベビー服のおさがりを
もらったり、ベビーカーやチャイルドシートを買ったり、少しづつ準備を進め、
部屋の模様替えをして、ソファーも新調して、生活環境が変わっていきました。
会社の同僚には、私の好きなサッカーチームのベビー服をあしらった
ナッピーケーキをもらって、あとは予定日を待つのみでした。
年が明けて2015年、臨月を控えた妻は予定日の3週間前から産休を取り、
家でのんびりと過ごす日々。
定期健診では、ちょっとサイズが小さめとは言われたものの、
お腹の中で暴れまわり、ガンガン蹴ってくる赤ちゃんが、いつその産声を
聞かせてくれるのか、出産への不安と同時に楽しみでいっぱいでした。
2015年1月21日、38週目の検診では心音もバクバクと大きく聞こえ、
「次の検診は無いわねー、もうあとは出産のみよ」と病院で言われました。
まだ名前も決めてないねー、顔見てから決めようか。そんな話をしてました。
その二日後、1月23日のことです。
私が社外研修に出ていた日、午後くらいに妻から連絡がありました。
「なーんか、今日、動きが悪いみたい。不安だから病院行きたい」
急いで帰宅して、簡単な身支度だけして車で病院に向かいました。
マタニティー専用の救急センターを訪ねて、早速エコーで検査。
なぜか、二日前まで心音バクバクだった赤ちゃんから何も聞こえませんでした。
15分くらいかけて一生懸命に調べてくれたお医者さんから、
「Sorry, he passed away」(残念ながら亡くなりました)
そう告げられました。
考えもしてませんでした。
臨月まで育ち、パンパンに大きくなった妻のお腹の中の赤ちゃんが
どうして亡くなることがあるのか。
頭が真っ白になり、そこから2時間近く、二人しで泣き続けました。
日本の両親にも電話でその旨を伝えました。
誰もが信じられないその報告に、電話でも泣き崩れました。
しばらくしてお医者さんから薬を渡されました。
それは陣痛促進剤。自分から破水させることの出来なくなったお腹の赤ちゃんを
産み落としてあげるには、陣痛促進剤で出産をしなければなりません。
その晩は一度帰宅し、翌日に病院に来るように言われました。
後日、日本で看護師経験をした友人から聞いた話では、
日本ではこういった場合、精神的苦痛を考慮して帝王切開で赤ちゃんを
お腹から取り出すという選択をする病院が多いようですが、
本来はお腹の痛みを伴った出産を推奨すべきなのだそうです。
というのも、出産の精神的苦痛を和らげる一方、これまでお腹にいた子が
気が付いたら居なくなることで、その後の空虚感が大きすぎるため、
赤ちゃんを授かったという事実を出産を通して記憶に残す方が、
酷なようですが、妊婦さんにとって良いのだそうです。
イギリスでは、帝王切開は「手術」と分類され、自ら望んでの帝王切開は無く、
本当に必要な時にだけ医者の判断にて施術されます。
帰宅した我々夫婦。
これまで見えていた景色が一変しました。
山積みになったベビー服、ベビーカー、チャイルドシート、新調したソファー。
全て、生まれてくる赤ちゃんのために整えた環境の中、
やり切れない思いでまた泣き続けました。
とりわけ、お腹の中にまだ赤ちゃんを残したままの妻は、
その晩眠ろうにも眠れず、ただただ時間が過ぎるのを待ってました。
翌日、生まれたら連れて来ようね、と話し合っていた近所の公園で
簡単なピクニックをしました。1月の寒い中、ベンチに座って、
景色を眺めながら、サンドイッチを食べました。
「ごめんね、、、ここで一緒に遊ぶ予定だったのにね。ごめんね・・・」
もう、一生に流すであろう涙の半分以上が出たのではないかと思えるくらい、
この数日間は何をしても辛かった。
夕方になり病院に行きました。
基本的にイギリスの病院では個室入院は無いのですが、我々のような状況になった
妊婦さんが使える用の個室があり、そこで再度、陣痛促進剤を服用しました。
ほどなくして陣痛が始まり、妻は出産体制に入りました。
赤ちゃんが自ら動かないということから、通常の出産よりも痛みも強いようで、
妻は何度も何度も迫る陣痛の波に耐え、それはもう一緒に付きそう私には
想像の出来ない苦しみの表情を浮かべていました。
通常の出産では赤ちゃんに影響が出るということで使用することは無い
モルヒネまで投与し、10時間近い格闘の末、ようやく出産となりました。
10か月も待ちに待った息子の顔は、それはそれは可愛くて仕方ありません。
体重2,200グラム、少し小さめで生まれた赤ちゃんと大差ありません。
のちに読んだ本によると、胎内で亡くなった赤ちゃんは、少しでも母体に
負担をかけないようにと、自らの体を少し萎ませるだとか。
それを考慮するのであれば、体重はもう少し大きかったのかもしれません。
可愛い可愛い我が長男。
しかし、呼吸することはありませんでした。
産声を聞く事も出来ませんでした。
力強く指を握り返すこともありませんでした。
※写真が不適切でしたら削除致します
私は妻に感謝しか出来ません。
この赤ちゃんを、ちゃんとこの世に出してあげれたのは、妻の頑張りがあってこそ。
生を授けることは出来ませんでしたが、ちゃんと我々夫婦のもとに
しっかり舞い降りてきてくれました。
それが、2015年1月25日、ちょうど三年前の今日になります。
赤ちゃんがお腹の中で亡くなることを、その週数によって以下に分類するそうです。
0週~23週: 流産 (Miscarriage)
24週~40週: 死産 (Stillbirth)
我々は死産証明書 (Stillbirth Certificate)を病院に発行してもらいました。
これが無いとお葬式をあげることが出来ません。
イギリスでは、大人でも、亡くなってすぐには火葬や土葬を行いません。
数週間は霊安室にて休ませ、諸々の手続きの後、おおよそ2週間後に実施します。
本当は日本に連れていって火葬したいと考えたのですが、輸送の手続きなど
かなり大変である上、赤ちゃんの体は筋肉もしっかりしていないため、
移送中に傷つけてしまう危険性がありました。
仕方なく、イギリスで火葬、遺骨は日本のお墓に入れようということに
なったのですが、イギリスの火葬は灰にするまで残さないのが原則のようで、
出来る限りお骨を残してもらえる火葬場を探しました。
(法律で火葬温度を下げることが出来ないため、火葬時間を短くすることで
遺骨として残してくれる火葬場があります)
本来、そういう相談を受け付けるところではないのですが、日本大使館に電話で
問い合わせをしたところ、3件ほどの葬儀社を案内してくれました。
うち1社は懇切丁寧に対応してくれたので、その会社に全てを依頼しました。
イギリスでは未成年者の葬儀は原則無料で、葬儀社は費用請求をしません。
ただ、せっかくなのでしっかりとした棺を頼んで、そこだけ有料としました。
病院が発行した死産証明書を持って、その地域の市役所に行きました。
そこで死産届けを出し、土葬及び火葬許可証 (Certificate for Burial or Cremation)を
発行してもらうのですが、この死産届けの際に赤ちゃんに名前を付けられます。
せめて、この世に来てくれた愛息子に与えられるのは名前だけ。
決めかねていた候補から一つ選んで、登録しました。
これで、イギリスの役所には彼の名前がずっと残ることになります。
死産届けを出す窓口は、出生届を出す窓口と同じでした。
(予約制なので、出生届を出す人と同じ時間帯にはならない仕組みです)
市役所を出る際、我々は誓いました。
「いつか必ず、この子の弟か妹の出生届を出しにまたここに戻ってこよう」
と。
土葬及び火葬許可証を葬儀社に提出、火葬の段取りが整いました。
式は2月6日。
奇しくも、出産予定日でした。
日本からお互いの両親も渡英してもらい、家族総出で見送ることになりました。
今でもこの光景は忘れません。
自分の息子が火葬に出される一部始終。
三年が経った今でも、たまに夢の中に出てきて、
「お父さん、熱いよ」
そう叫ぶ息子に何も出来ない。
ごめん、本当にごめんね。
でも、お父さんもお母さんも、君を授かって本当に幸せだよ。
まだ少し先になるけど、必ずそっちに行くから待っててね。
そう、心の中で繰り返し繰り返し唱えています。
火葬場の煙突から見える煙は、大空高く舞い上がりました。
ヒースロー空港に近いため、飛行機がよく往来します。
色んなところに旅行に出てくれたらいいな、と。
こうして、激動の2週間が過ぎました。
しかし、本当に辛いのはここからです。
妻は引き続き産休で体と心を休める時間です。
両親も帰国した後は、私が妻の面倒を見ながら会社に出ました。
家から一歩出ると、街にはこれまで気が付かなかったほど
子供をいっぱい見かけます。
実に辛い。
公衆トイレに入ると、子供用に低めに設置された小便器を見かけ、
そんなものですら、息子が使う姿を想像してはまた涙が溢れてきます。
SNSも残酷なものです。
いいね!をする人は全く気にかけていないんでしょうが、
自分のタイムラインに無造作に出てくる子供の写真、妊娠報告、出産レポ。
気が狂いそうになるほどまた涙が溢れてきます。
事実、妻は暫くの間Facebookアプリも削除し、
一切のSNS環境から身を引きました。
38週目を過ぎて死産に遭う確率は交通事故よりも低いそうです。
かなりマイノリティーな我々は、SNSというマジョリティーからは
身を引くということしか、この苦痛から逃れる手はありませんでした。
その後、火葬場にて発行してくれた火葬証明書を持って遺骨とともに日本に一時帰国、
まだ自分たち夫婦がどのお墓に入るかすら話し合ったことがなかったので、
しばらく考えましたが、私の祖父・祖母の眠る墓に一緒に入ってもらいました。
法要も済ませ、戒名もつけました。
死産の場合、名前もつけず戒名もつけない、という方が割かしいるそうですが、
我々夫婦は彼の存在を忘れなくないので、どちらもつけることにしました。
死産した赤ちゃんには「~水子(すいじ)」という戒名がつけられます。
また、出産後一年内に亡くなった子は「~狭子(きょうじ)」となるそうです。
お墓の横に彫られた戒名をよく見ると、同じような悲しみと向き合うことになった
夫婦が思ったよりもいることが分かります。
時は経て、2016年7月、新たな命を授かり、無事生まれました。
前の子とそっくり。当たり前かもしれませんが、そっくりでビックリしました。
そして、妻と誓ったあの市役所に出生届を提出しました。
ちゃんと、お兄ちゃんと同じところです。
ようやく、待望の子育てです。
子育ては大変ですが、前の子の分もあるので、弱音は吐けません。
大変なことも全て引っくるめて幸せだと思っています。
その一方、この子に愛情を注げば注ぐほど、前の子に何もしてあげれなかった、
という感情も出ることもしばしば。涙腺がまた緩みます。
子育てで奔走している中、ふと妻が言いました。
「そういえば、昔書き始めたブログってどうしたの?」
かくかくしかじか、前の子のこともあって全く手を触れていない、
ということを妻に伝えたところ、
「もしかしたら、同じ状況に遭遇して困っている人がいるかもしれない。
特に、こういう事はネットでもどこにも情報は見つかりにくいから、
うちらが経験してきたこと、手続きだったり必要書類だったり、
紹介するブログ、書いてみたら」
という助言をしてくれたのです。
参考にしてもらうような人が出てこないことを願いつつ、
三年という月日が経った今日、一つの節目としてこのブログを更新しました。
これを機に、また不定期ながらブログ活動を再開してみようかと思っています。
長文、読了頂き感謝です。
ぬま~りお